山田晴通
山田晴通も参照
本名 | 山田晴通 |
---|---|
愛称・別称 | 山田先生、尊師 |
性別 | 男性 |
生年月日 | 1958年10月[1] |
出身 | 日本・福岡県福岡市[2] |
在住地 |
日本・長野県安曇野市(住民票の住所、休日の居住地)[2] 日本・東京都(講義がある時の居住地)[2] |
YamadaHarumichi | |
活動期間 | 2009年3月5日 - 活動中 |
主な活動分野 | 音楽、学者記事、翻訳 |
受賞歴 | |
月間感謝賞(2011年3月) | |
権限歴 | |
| |
ブロック歴 | |
| |
|
山田晴通(やまだはるみち)は、ウィキペディア日本語版の元管理者。利用者名は本名であり、現実世界では東京経済大学の教員を務めている。管理者時代には計7度の解任投票が実施され、7回目の投票にて解任されたという経歴を持つ剛の者であった。軽快が作成した「jawp新着記事執筆者ランキング[3]」によると、2018年3月26日時点で新着記事への掲載本数は140本(jawp第13位)。
概要[編集 | ソースを編集]
東京経済大学の教授をしているためか、よく先生や尊師といった敬称がつけられる。jawpに本人の記事が作られていることが明らかであり、かつ実名で活動していると言う希有な存在(他に明らかとなっている学識経験者は柴崎力栄と“さえぼー”こと北村紗衣くらいしかいない。他に少なくとも一名、隠しているつもりらしい[4]がバレバレの人もいる)。非常に高い執筆能力を買われ、大きな期待を背負って2011年に管理者となった。しかし、記事の削除の解釈がズレていたようで、良いとは言えない対話姿勢や、管理者であるにも関わらず編集合戦でブロックされた問題も相まって2016年に解任された。管理者の解任は2012年11月のVigorous action以来、4年ぶりの出来事だった。個性派教授としても知られているので、興味のある方は個人的に調べてみてはどうだろうか。本人もその辺りはオープンにしており、ホームページで大学での話題を公開している。
経歴[編集 | ソースを編集]
アカウント作成[編集 | ソースを編集]
2009年3月6日にアカウントを作成。最初の編集はノートページへの意見であった。3月27日、利用者ページを作成。4月14日には、自身初の新規記事ヴィマンメク宮殿(ノート / 履歴)を作成した。6月30日には、会話ページにウェルカムメッセージ以外で初のメッセージが投稿された。
管理者就任[編集 | ソースを編集]
2011年3月、月間感謝賞を受賞した。6月にはアイザールに管理者への立候補を勧められた。このときは辞退したが、11月に海獺からも勧誘されると、12月10日に立候補。17日に投票が始まり、賛成36票、反対1票という圧倒的な結果で信任された。山田のような一流執筆者が管理者となることは好ましいことであると、この時はコミュニティに歓迎されていた。なお、唯一の反対票を投じたのは元管理者の氷鷺であった。
小谷野敦事件[編集 | ソースを編集]
2012年には、「Akoyano」の名で活動していた同じ東大卒の小谷野敦に粘着される。小谷野敦は「ウィキペディアというのは、日本における代表者、またその住所なども分からない団体で、私はそういう無責任団体のルールなど守るつもりはないのだ」と宣言し、著作権侵害や暴言などのルール違反を重ねて無期限ブロックされるが、その後山田の職場へ小谷野より書留で質問状が送り付けられた[5]。
山田はWikipedia内での返答を望んだが、jawpにおいてAkoyanoのアカウントは会話ページの編集も禁止されていたため、V悪の助言によりmetaの会話ページで議論を展開。しかし、Wikipediaのコミュニティ自体を軽視するLTAと、管理者の見解が一致に至るはずもなく、「別にもう言うべきことはないのですが」と記した書き込みで小谷野からの応答は終わり、その後直接の接触はないようである。
管理者としての活躍[編集 | ソースを編集]
解任投票その1[編集 | ソースを編集]
管理者就任後、山田は即時削除を中心に管理者権限の行使を行った。しかし、2012年7月に自身に対するコメント依頼を提出すると、多くの批判の声が集まった。これを受け、11月に自ら解任動議を提出したが、この時はまだ期待が残っていたこともあり、賛成1(Uaa):反対34の大差で信任された。だが、2013年になっても間違いや独自の解釈が多く、会話ページの節数は2013年上半期だけで48を数えた(管理者・元管理者からの苦情を含む)。
解任投票その2・その3[編集 | ソースを編集]
2013年4月1日未明のエイプリルフール早朝、元管理者のVigorous actionが作成したエイプリルフール記事に対し、この時間帯はUTC基準だと3月31日であったため「1日早かったですね」と即時削除を実施。ところがV悪は「JSTだと既に4月1日だ!」との理由により、即時削除を不服としてWikipedia:コメント依頼/山田晴通_20130404を提出。しかしこの依頼には「エイプリルフールにおけるジョーク記事など目的外以外の何者でもない。それをJSTだから残すべきだなんだと良い加減にして欲しい(ぱたごん)」など依頼者のV悪への批判が殺到したため、事なきを得た。
しかしさらに同年の6月には、削除依頼における依頼者票1票のみでの削除の繰り返しについて、氷鷺によりWikipedia:コメント依頼/山田晴通_20130629が提出される。このコメント依頼を受けて7月には自ら解任動議を提出し、4対34で信任となった。12月にも「管理者になって2年が経過したため改めて信を問う」として自ら解任動議を提出した。こちらは2対18で信任された。
解任投票その4・その5[編集 | ソースを編集]
2014年11月には、ぽてから軍団の一員であるロックオン・媚・ブリタニアにより、記事におけるタグ爆撃(要改善タグの大量貼り付け)を問題視するコメント依頼に発展。同月末に提出された解任動議は18対22と、ぎりぎりでの留任となる。
2015年11月には3年続けて自身への解任動議を提出し、この際は信任率は8割まで回復した。翌年2016年の頭にはLTA:SHINJUによるコメント依頼があったが、粛々と終了している。
解任投票その6[編集 | ソースを編集]
しかしその後も管理作業におけるミスは留まる事がなく、会話ページに複数の苦情が舞い込んでおり、山田が即時削除した記事を他の管理者が復帰するケースも見られた。2016年4月にはWikipedia:コメント依頼/山田晴通_20160405(Ohgi)、5月にはWikipedia:コメント依頼/山田晴通_20160521(アルトクール)が提出される。そして前人未到の6度目の解任投票は大接戦となったが、2013年のエイプリルフールでの私怨からか、山田の会話ページへの苦情を繰り返していたV悪の賛成票に対し、かねがねV悪への業を煮やしていたYassieが反対票を投じるなどの大立ち回りなどもあり、賛成23・反対24(賛成率48.9%)という僅か1票差での留任となった。山田は以前「解任動議で過半数に達さなくとも、まとまった解任賛成票があれば管理者を辞任するのは当然」との意向を示していたが、管理者を辞任することはなかった。
解任投票その7[編集 | ソースを編集]
この期に及んでもなお不適切な管理作業は改善される事はなく、9月末には市井の人によりWikipedia:コメント依頼/山田晴通 20160929が提出され、多数の参加者から苦言が呈された。さらにコメント依頼の最中には一度削除された「クリメント北原史門(ノート / 履歴)」の記事を独断で再作成し、ノートにて反発の声が上がると記事中で3RRルールに抵触する編集を強行し(要は編集合戦)、10月2日には現役管理者ながら3日間のブロックの対象になるという、比較的レアなケースが発生した[6]。なおこの記事は当然削除されている。
それらの件から約2週間を経て行われた「Wikipedia:管理者解任の投票/山田晴通 20161019」においての信任投票の結果、留任4、解任19、信任率は17.4%となり、最早コミュニティの信任を失った山田は、管理者を解任されるに至った。山田にとってはjawpにおいての方針の標準的な解釈・運用を理解することや、それに従うことは難しかったのか、あるいはプライドが許さなかったのだろうか…。解任投票の対象となった数は随一であり、2024年6月10日時点の解任投票記録では7回で堂々の一位。これは抜群の存在感を放っていると言えるであろう[7]。
退任してからは、従来通りの執筆活動を活発に続けている。前述の通り執筆力は高く、これであれば山田もjawpコミュニティも、余計な事に時間を割かずに有意義な活動が行えることであろう。
注釈・出典[編集 | ソースを編集]
- ↑ 利用者:山田晴通oldid=66679610
- ↑ 2.0 2.1 2.2 山田への「よくある質問」(FAQ) Q:出身地はどこですか?
- ↑ Ranking list of user creating new article - Quarry
- ↑ いやあれ多分隠す気ねえだろ。
- ↑ 小谷野のブログに全文が掲載されている[1]。
- ↑ 困った事にjawpにおいては、レアではあるものの史上初でもなんでもない。
- ↑ Wikipedia:管理者の辞任2024年6月3日 (月) 09:46(UTC)版。もっとも、その内の6回は「解任されなかった」わけでもある。